「これって、もしかして私にしかできないんじゃないか?」
そう思える事柄があると、胸が高まり、それに没頭するようになる。
寝食を惜しみ、空いた時間を見つけては、それをやらずにはいられなくなる。
そうやって没頭しながら時間を過ごしていると、毎回、ある時点に到達する。
「あ、これ、他の人でもできるものなんだ」と。
そう気付いた瞬間、どうしようもなく冷める自分がいる。
私以外にもできる人がいるなら、もう、私がやる意味はない。
あえて私がやる必要はない。
それまで没頭していたのが噓のように、それと距離を置く自分がいる。
器用貧乏の正体。
ウサギと亀の、ウサギの正体は、これなのだろうか。
亀が歩き続けるのは、「できるのは当たり前ではない」からなのではないか。
「できるようになったこと」それ自体が亀を励まし、勇気づけ、背中を押し、継続させるのかもしれない。
その貴重さに感謝し、自身に成長を感じ、「できること」に特別感を感じているからかもしれない。
ウサギにとって、事柄ができるのは当たり前。
やろうと思えばいつでもそれをできると思っているし、できない自分は想像ができない。
それゆえ、「できること」それ自体がウサギを励ますことはない。
例えば、健常者が走る。文字を書く。
走ること自体、文字を書くこと自体が、健常者を励ますことがあるだろうか?(否、ない。)
なぜならそれは当たり前で、できない自分を想像することは容易くないからだ。
走ることや文字を書くことができない自分を想像できるようになるのは、身近な人が健常者じゃなくなったときだろう。
では、ウサギが歩き続けるためには、どうしたらよいのだろうか。
「できることそれ自体」が、ウサギを励ますものであればよい。
例えば、事柄においてライバルに勝ったと感じること。
事柄に触れ合う時間が、ウサギにとって貴重・特別なこと。
確実に前よりできるようになっていると実感すること。
自身の生活が明らかに変わっていると実感すること。
他者の心を動かしたと実感すること。
ウサギには、この実感が足りていない。
つまり、実感するための工夫が足りていないのではないだろうか。
ウサギになっている自分を自覚したら、そんな自分に辟易したら、実践することを徹底しよう。
実践すれば、否が応でも「できることそれ自体」の影響力を実感するようになる。
ウサギに足りていないのは努力でも実力でもなく、実感だ。
実践しても実感できないウサギは、目の前で起きていることを見ていない。
焦らず、怯えず、勇気を出して、冷静に目の前を見てみよう。
それをやったことで得たもの。
他者の感情。自分の感情。目の前の風景。過去の自分。今自分の中にあるもの。
余すことなく、実感してみよう。
「自分以外の誰かにも、自分と同じことができる」と気付きながら、その事柄を続けることは、怖い。
特別じゃない自分を見せつけられるから。
それでも継続したい自分がいるなら、実感してみよう。
目の前の世界を、「できること」で変えていく自分を。
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